広島平和記念公園

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ここでは、訪れておきたい園内のスポットを厳選し、ご紹介したいと思います。平和公園は周囲に壁などの仕切りがあるわけではなく、周辺地域と一体化したつくりとなっています。そのため、初めて訪れる方は「どこから見始めるのがいいんだろう?」という思いをされると思います。もちろん好きなところから入っていただいて構わないのですが、幼いころから何度も訪れている県民目線でご案内したいと思いますので、どうぞ参考にしてみてください。記事の一番下には各スポットのマップも用意しています。
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原子爆弾投下について

1945年8月6日午前8時15分、米軍爆撃機B-29により世界初の原子爆弾「リトル・ボーイ」が投下されます。リトル・ボーイは広島市中島町にある相生橋付近、上空600mで核分裂による爆発を起こします。その歴史的な被害は甚大で、熱傷範囲は爆心地から半径3.5km、爆風範囲にいたっては爆心地から半径11kmとなっています。間接的なものも含めた死亡者数は実に14万人を数え、一発の爆弾による被害としては最も大きな負の記録として現在まで残っています。

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上空に立ち上るきのこ雲

広島平和記念公園の歴史

戦後間もない1946年11月1日、爆心地となった中島町内の10.72haが「中島公園」として都市計画されます。その計画をもとに、1949年11月1日に「広島平和記念都市建設法」が制定され、平和を願う心を世界に発信する地として公園の建設がはじまります。丹下健三氏が設計を担当し、現在でも象徴的な建物として印象深い「広島平和記念資料館」や「原爆死没者慰霊碑」などが建設されました。当時の計画では、周辺地域を含んだ広大なものでしたが実現には至らず、今の平和記念公園となりました。

その後、様々な立場や携わりのあった人々のために慰霊碑が建てられ、現在では、公園周辺を含め50を超える慰霊碑や記念碑、建物がつくられています。

平和記念公園のエントランス(記念写真撮影スポット)

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公園入口から眺める平和記念資料館

広島平和記念公園(以下、平和公園と記載)の代表的なモニュメント「嵐の中の母子像」から望む「広島平和記念資料館」。広島を代表する風景として一度は目にしたことがあるのではないでしょうか。ここから平和公園がスタートします。

平和公園の南側に位置する、通称「平和大通り」から入ると、まずはこの広いエントランスが現れます。その先頭にこのモニュメントがあり、先には印象深い噴水、そして有名な平和記念資料館へと続きます。この3か所をひとつに収めることができる上記の位置からまずは記念写真を一枚。

エントランスから平和公園を眺めながら次へと進みます。

広島国際会議場と広島平和記念資料館

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広島国際会議場

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広島平和記念資料館

エントランスを進むと向かって西側(左側)に広島国際会議場、東側(右側)に広島平和記念資料館入口があります。この2つの建物は中央にある資料館本館に対してシンメトリーに建てられており、その姿は公共建築100選に選ばれています。

広島国際会議場は地上3階地下2階からなり、約1500人収容のフェニックスホールをはじめ、国際会議を行う大ホールから小さな会議室まであり、同時通訳設備や高品質な映像音響設備が完備されています。ここでは、世界各国から集まる国際会議や様々なコンサート、講演会などが行われています。

広島平和記念資料館は地元県民の間では「原爆資料館」と呼ばれている、全国で最も有名な資料館のひとつです。原爆による被害や平和への願い、遺品や現存する建物の一部など、原爆に関する様々なものが展示されています。連日多くの観光客が訪れ、年間130万人が訪れています。その中でも外国人が15万人を占めており、ヒロシマ平和の願いは世界中から注目されていることが伺えます。

エントランスを抜けたら、まずはこの資料館へ行きましょう。


広島平和記念資料館

所在地

  • 広島県広島市中区中島町1番2号
    082-241-4004

開館時間

  • 3月から7月まで 8:30~18:00
  • 8月 8:30~19:00
  • 9月から11月まで 8:30~18:00
  • 12月から2月まで 8:30~17:00

入館料

  • 大人 200円
  • 高校生 100円
  • 中学生以下 無料

その他

  • 音声ガイドの貸し出しあり

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入口にある地球平和監視時計

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連日多くの観光客が訪れます

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広島に投下された原子爆弾「リトル・ボーイ」の原寸大模型

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爆心地周辺の被害模型

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被爆した三輪車

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オバマ大統領が作られた折り鶴と直筆のメッセージ

原爆死没者慰霊碑

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原爆死没者慰霊碑から望む平和の灯と原爆ドーム

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毎年8月6日に行われる式典の準備を進める慰霊碑前の広場

資料館を出たら、芝生に覆われた広場中央にある通路へ導かれます。左右には公園内の豊かな木々が広がっており、資料館で大きく揺れ動いた心を静かに癒してくれます。通路の先に見えてくるのは、これも一度は写真で見たことがあるであろう有名スポット「原爆死没者慰霊碑」です。これは国内外を問わず、原爆で亡くなった全ての方を慰霊する記念碑です。原爆犠牲者の霊を雨露から守るための屋根が慰霊碑となっており、その下には原爆被爆者全ての氏名が記された名簿が収められた石室が置かれています。

この記念碑は「平和の灯」と「原爆ドーム」の一直線上にあり、訪れた人々が屋根の正面からこのふたつを望みながら祈りをささげられるようになっています。ここに立ったら、ぜひ平和の祈りを捧げていただき、その思い出を写真に収めてください。2016年5月27日にアメリカのオバマ大統領が訪問された際も、ここから祈りを捧げております。

平和の灯と平和の池

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平和の灯を静かに包み込む平和の池

原爆死没者慰霊碑の後ろに広がる「池と灯」。その平和の灯には「核兵器が地球上から姿を消す日まで燃やし続ける」というヒロシマの思いと願いが込められています。1964年に点火されて以来一度も消えることの無い灯は、非核悲願とは裏腹な世界状況を物語っています。

平和の池は、水を求めながら亡くなっていった犠牲者を慰めるかのごとく、静かに、そして決して絶えることの無い水を蓄え続けています。

国立広島原爆死没者追悼平和祈念館

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静かな木立の中にある記念館入口

次に訪れたいのが、平和の池の東側(右側)にある「国立広島原爆死没者追悼平和祈念館」です。地上に建てられるのではなく、地下に建てられている国立施設で、原爆死没者を追悼するための施設です。地下2階構造で、丹下健三氏による設計となっています。

地下1階は情報展示コーナー及び体験記閲覧室が、地下2階は平和祈念・死没者追悼空間及び遺影コーナーがあります。原爆死没者の氏名や遺影などが展示してあり、現在もなお展示者を募集しています。登録者数は10,000人を超えており、現在も増え続けています。また数多くの証言者によるビデオが閲覧でき、当時の生々しい状況を垣間見ることができます。このビデオについては、広島平和記念資料館を通じて貸し出しも可能となっており、平和学習の資料等に使われています。入館料は無料となっています。

様々な記念碑や記念像

平和公園の東側と西側には木立が広がっています。その木漏れ日溢れる木々の中には多くの記念碑や記念像が点在しています。それぞれに置かれていた立場から平和を祈念したそれは大変感慨深く、思わず足をとめて思いにふけってしまいます。ここでは、そのいくつかをご紹介したいと思います。この木立をぜひ歩いてみてください。色々な「思い」に出会えます。

祈りの像

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表情がとても印象深い祈りの像

1960年、戦後15周年を記念して「大東亜戦争」を始めとする戦争において、国に殉じた犠牲者の慰霊と平和への祈りを込めた記念碑です。そしてこのような詩が残されています。

正しい戦争だと信じたから
命令の通り銃をとり
命令の通り銃後を守った
いまは
世界の隅ずみに
平凡な家庭と平和がありますように

平和記念像

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金色のラッパと三日月が希望を感じさせてくれる平和記念像

1977年に、学童募金により建てられた記念像。母親に抱かれた子どもが平和のラッパを吹いており、その目線の先にある原爆死没者慰霊碑を見守っています。

平和の観音像

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消えた町を思い続ける平和の観音像

爆心地の中島本町では住民はほぼ全滅、458名が亡くなり、中島本町自体も爆発による衝撃で瞬時に消滅しました。戦後、この町は公園となったため、わずかに残った生存者も移転を余儀なくされ、町は姿を消しました。この消えた町に対する惜別の思いと、犠牲となった人々を慰霊するため、この観音様が建立されました。

韓国人原爆犠牲者慰霊碑

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同胞の悲しみを見守る韓国人原爆犠牲者慰霊碑

当時の広島には数万人の朝鮮人が住んでおり、原爆により被爆したと言われています。広島で被爆した同胞の慰霊と、再び同じ過ちが繰り返されない願いを込めて建立されました。この慰霊碑にはこう記されています。

悠久な歴史を通じて、わが韓民族は他民族のものをむさぼろうとしなかったし、他民族を侵略しようとはしませんでした。(中略)
しかし、5千年の長い民族の歴史を通じて、ここにまつった2万余位の霊が受けたような、悲しくも痛ましいことはかつてありませんでした。韓民族が国のない悲しみを骨の髄まで味わったものが、この太平洋戦争を通してであり、その中でも頂点をなしたのが原爆投下の悲劇でありました。

原爆供養塔

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小高い丘になっている原爆供養塔

爆心地に近かった場所には無数の遺体がいたるところに散在し、当時の状況と検死技術ではどこの誰であるか突き止めることに限界がありました。ここには、変わり果てた姿で見つかったため氏名がわからなかった方や、一家が死滅したため引き取り手が居なかった方たちの遺骨が収容されています。

原爆の子の像(千羽鶴の塔)

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子供たちの平和を願い続ける原爆の子の像

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世界中から捧げられる千羽鶴

慰霊碑の立ち並ぶ木立を抜けると、折り鶴を掲げた女の子の像が目に飛び込んできます。この女の子は「佐々木貞子さん」。

貞子さんの死をきっかけに、原爆で亡くなった子供たちの霊を慰めようという運動が全国へ広がりました。募金活動の末、この「原爆の子の像」が建てられ、貞子さんの思いを引き継ぐかのように全国から千羽鶴が送られてきました。その思いは現在でも続いており、今では世界中の国から折り鶴が捧げられ、その数は実に年間1,000万羽となっています。また、像の下の碑文には「これはぼくらの叫びです これは私たちの祈りです 世界に平和をきずくための」という言葉が刻まれています。

佐々木貞子さん(当時12歳)は2歳の時に被爆し、その後は何事も無いかのように元気に成長していました。しかし、体は原爆により蝕まれ続けており、12歳の時に白血病と診断されます。「千羽の鶴を折ると願いが叶う」という言い伝えから、生きることを必死に追いながら鶴を折り続けました。当時、色紙などは大変高価なものだったので、包装紙などを使った折り鶴でした。しかし、闘病の甲斐なく8か月後の昭和30年にこの世を去ってしまいます。

大正屋呉服店(現レストハウス)

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被爆建物として現存するレストハウス

原爆の子の像から北側に目を向けると古めかしい建物が見えます。ここは当時大阪に本社を持つ大正屋呉服店という大きなブティックでした。当時としては珍しい鉄筋コンクリートで造られたモダンな建造物で、屋上からは広島市内が見渡せたそうです。3階まではショーウィンドウとなっており、当時の女性に大変人気のある場所でした。この建物は、強固な造りであったことと爆発が起こったポイントに向けて開口部が無かったことから、屋根が押しつぶされたり内部が破壊されたにもかかわらず、建物外部は奇跡的に残りました。

戦後、早急に修復作業が行われ企業が使用していましたが、平和公園の建設に向けて取り壊しの案が出ます。しかし1957年に広島市が買収し、この貴重な被爆建物を保存することになりました。その後いく度かの改修を重ねて1982年からはレストハウスとして使用されています。

なお、建物の地下室は被爆当時の姿のまま残されており、大切に保存されています。

原爆ドーム(広島県産業奨励館)

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下から眺める原爆ドーム

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下から眺める原爆ドーム

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破壊された建物内部

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散在するがれき

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大正時代に広島県立商品陳列所として活躍していた頃の写真

レストハウスのそばを流れる川向こうに悠然と見えてくる世界遺産「原爆ドーム」。平和公園の最後に現れる「ヒロシマの姿」です。平和の象徴として世界中の人々が訪れ、様々な思いとメッセージを感じることのできる歴史的建造物です。

原爆ドームは1915年に開館したバロック調のモダンな建物で、日本で初めてバウムクーヘンの製造販売が行われたり全国菓子飴大品評会が開催されるなど、広島県民が真新しい産業を見たり体験したりできる先進的な場所でした。

1933年には「広島県産業奨励館」と改称され、盛んに美術展が開催されるなど、広島の文化拠点としても大きく貢献していました。

原爆投下時の状況

爆弾は建物の東約150m、上空約600m地点で炸裂しました。爆発の0.2秒後、日光による照射エネルギーの数千倍という熱線に包まれ、地表温度は3000度に達しました。0.8秒後、熱線の次に襲ってきたのは衝撃波を伴う秒速440mの爆風でした。1秒後、建物の本体部分は全壊。広島の産業を象徴する建物は一瞬にして崩れ去りました。

しかし、中央部分のドーム部は全壊を免れ、鉄骨部分と外壁が残りました。その理由として、爆発地点がほぼ真上であったため衝撃波の向かう角度からずれていたことと、建物には窓が多く爆風が建物内に溜まることなく吹き抜けたこと、などがあり、奇跡的にも全倒壊することなく残りました。

しかし、それでも建物は致命的な被害を受けており、原爆の威力の凄まじさをまざまざと感じさせられます。

広島の復興と原爆ドーム

戦後、広島の復興は一面焼け野原となった街に散在するがれきの撤去から始まりました。撤去が進むにつれ、文字通り何もなくなった街並みにこの産業奨励館跡はひときわ高くそびえ立ち、よく目立ったそうです。

その頃すでに市民からは「原爆ドーム」と呼ばれ始めており、新たに始まった街の整備に伴い取り壊しが検討される中、保存に向けた声も多く聞かれていました。

そして1949年に広島平和記念都市建設法が制定されると、広島復興及び恒久平和の象徴として産業奨励館跡の取り壊しが回避されました。そして、1955年、丹下健三氏による平和記念公園の設計にはこの産業奨励館跡をシンボルとしたものとして開園し今日に至っています。

世界遺産登録への道

1992年に日本が正式に世界遺産条約を受諾したことを契機に広島では早くも原爆ドーム登録への動きが出始めます。しかし、世界に点在する世界遺産と比べ原爆ドームの歴史は非常に浅く、当初は登録は無理だという声もありました。さらに、かつての戦争の経緯から諸外国、特にアメリカや中国、韓国の反発も予想されたことから当時の文化庁では遺産登録には消極的でした。

しかし、これらのマイナス要素が逆に市民感情をかき立てることとなり、登録への署名活動が盛り上がりを見せました。その結果、実に165万人分の署名が集まり、その後押しもあり国は遺産登録の申請を行うに至ります。諸外国の反発もある中、1995年、正式に世界遺産登録が行われました。当初懸念された世界感情も、今では毎年多くの外国人観光客が訪れ、あの悲劇と平和への願いに心を改める場所として存在し続けています。

世界遺産登録に至った審査基準は以下の通りとなっています。

顕著で普遍的な意義を有する出来事、現存する伝統、思想、信仰または芸術的、文学的作品と直接にまたは明白に関連するもの。

その他の見どころ

ここまで紹介したものの他にも訪れたい場所はたくさんあります。ここでは、そのいくつかをかんたんにご案内したいと思います。ぜひ合わせて訪れてみてください。

平和公園を包む木立と豊かな自然

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ひとつひとつのベンチに刻まれた様々なメッセージ

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多くの被爆者が亡くなった元安川から望む原爆ドーム

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平和公園を眺めながらひと息できるオープンカフェ

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広島の世界遺産「原爆ドーム」と「宮島」を結ぶ観光船のりば

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広島の新名所「折り鶴タワー」

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 ポイント  左上のメニューよりスポットを確認できます

アクセス案内

広島平和記念公園(Hiroshima Peace Memorial Park)

所在地

  • 〒730-0811
    広島県広島市中区中島町1丁目
    082-504-2390(代表)

アクセス

  • JR広島駅から:
    広島電鉄(路面電車)「1号線」へ乗車し、「本通」駅で下車。西へ徒歩約400m。
  • 広島バスセンターから:
    「原爆ドーム側出口」より西へ徒歩約300m。
  • 自家用車を利用する場合:
    広島市内方面へ国道54号を南下、城南通りとの交差点を左折し、次の信号を右折。紙屋町交差点を右折し、西へ約400m。(公園には専用駐車場が無いため、周辺の有料駐車場をご利用ください)

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