広島東洋カープを知ろう!

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広島東洋カープは広島県を拠点とするプロ野球(NPB)チーム。ホームグラウンドは「MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島」、日本では珍しい親会社を持たない市民球団として有名です。二軍のホームグラウンドは山口県岩国市の「広島東洋カープ由宇練習場」となっています。
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 広島東洋カープの歴史

球団創設への道のり

1949年、原爆により壊滅的な被害を受けた広島は復興の途上にありました。その当時の日本では、戦後の国民的スポーツとして隆盛を極めつつあり、広島でも球団設立の機運が高まっていました。その背景として、県内には広島商業高校や広陵高校など、後の一流選手を多く輩出している名門校があり、しっかりとした下地があったことが挙げられます。

そんな中、地元地方紙を発刊していた中国新聞社から「広島に広島出身者だけで構成されたプロ野球チームを作ろう!」という声が上がります。その声は有力者の心を動かし、中国新聞社東京支社長の河口豪氏と元内務省官僚の谷川昇氏が中心となり、一気に設立へ向けた動きが活発になります。その後「広島野球倶楽部」が設立され、同年9月28日に球団名を「広島カープ」に決定し日本野球連盟に加盟申請しました。そして11月28日、正式にセ・リーグへの参加が決定しました。

本拠地は広島総合球場(現:広島県総合グランド野球場)とし、初代監督に石本秀一氏が就任しました。ちなみに、広島カープというチーム名は、広島を流れる太田川が鯉の産地であったことや、原爆で焼け落ちた広島城が「鯉城」と呼ばれていたことから、「CARP=鯉」と名付けられました。

困窮期と昭和の樽募金

1950年3月10日に広島カープの記念すべき開幕戦が行われます。結果は5-6で敗れましたが、この瞬間こそ、現在の人気球団へとつながる大きな一歩となりました。しかしその後のカープは低迷を極めます。シーズン中に13連敗を記録するなど、優勝した松竹ロビンスに59ゲーム差をつけられ最下位に終わり、勝率もわずか.299でした。

また、親会社を持たないカープは資金的にも困窮を極めます。開幕からわずか3か月目の5月にはすでに選手への給料の遅配が生じており、自治体の予算の都合や入場者数の見込み違いなど、資金調達に苦しむ期間が続きます。

1951年には選手の給料や合宿費用、ついには移動のための交通費や野球道具の購入費までもが難しくなるほど困窮します。3月、球団幹部は野球連盟から呼び出され、「プロ野球は金が無いものがやるものではない」と言われるなど厳しい叱責を受けます。それを受けた球団幹部は広島市内の天城旅館で行われた役員会で、当時の大洋ホエールズとの合併を決めます。しかし役員会に遅れて参加した石本監督の「全てわしに任せてくれんかの?」という言葉を受けます。そして外を見てみると、チームの存続を願う多くのファンが旅館に詰めかけていました。監督とファンの熱意に押され、球団幹部はチームの存続を決心します。

石本監督は、その年のシーズン中も県内各地の公民館や自治体、学校などを訪ね歩き、チームの苦境を訴え続けました。そして中国新聞に資金調達の必要性をコラムで発信し続けました。その思いが届き、ついに自身が構想していた「カープ後援会」が発足しました。後援会会員数は瞬く間に1万人を超え、資金が集まり始めます。また、カープ解散の報道を聞きつけた市民8人が県庁へ乗り込み、球団への資金援助を訴えました。この訴えが元となり、市民活動にも火がつき、あの有名な「昭和の樽募金」へとつながっていきました。この8人はその後も自身を名乗り出ることはなく、「八人の侍」として語り継がれています。こうしてカープ球団は年末までに400万円を集め、球団の存続危機を乗り越えました。

なお、その後も後援会の活動や市民活動は続き、カープを支え続ける大きな力となりました。

昭和の樽募金の様子

photo by 死ぬまで生きよう!(昭和の樽募金の様子)

広島市民球場の誕生

その後、シーズンを4位で終えるなど少しずつ力をつけてきた広島カープは、1956年、原爆ドーム周辺に広島市民球場の建設を決定します。地元企業10社が建設費用の1億2千万円の寄付を申し出て、1957年2月22日に竣工式が行われました。同年7月22日に完成し、広島カープの歴史に新たなページが加わりました。

広島市民球場建設後の観客動員数は大幅にアップしていきました。1959年には動員数が12球団で巨人に次ぐ2位となり、新たな娯楽の場として多くの市民で賑わい、資金にも余裕が出てきました。ピッチングマシンなどの練習用機械や選手寮の建設など、選手を取り巻く環境も充実し始め、チームの実力も徐々に備わっていきます。

広島市民球場の誕生によりカープの運命が徐々に好転し始めていきます。

1957年の広島市民球場

photo by 毎日新聞(1957年の広島市民球場)

黄金期

その後、各シーズンの勝率も5割ラインを前後し続け、我慢の時が流れました。そんな中、1968年に東洋工業(現:マツダ)の社長、松田恒次が広島カープの筆頭株主となりオーナーに就任します。球団名も「広島東洋カープ」と改称し、市民球団としながらも実質的な指揮を担うことになりました。体制も大幅に変わり、ここから少しずつ変化が現れてきます。

そして1969年、シーズンの結果は最下位となりましたが、投手の外木場義郎、打者では衣笠祥雄や山本浩二、水谷実雄など、後の常勝チーム「赤ヘル軍団」の主役となる選手が台頭し始め、1970年からは2年連続でシーズンを勝ち越し、いずれも4位に終わるなど健闘します。

そして運命の1975年を迎えます。この年、球団初の外国人監督として「ジョー・ルーツ」が就任しました。ルーツ監督は、「野球に対する情熱を前面に出そう」というスローガンを掲げ、チームカラーをそれまでの紺色から情熱の赤へと変更します。しかしルーツ監督は試合中のトラブルからチームを去ることとなり、5月3日、新しく監督に就任したのが、後の常勝軍団を率いる名監督「古場竹識」でした。直後のオールスターゲームでは、山本浩二と衣笠幸雄が1試合に2本ずつのホームランを打つなどし、「赤ヘル旋風」が巻き起こりました。

そしてついに、シーズン終盤の10月15日、球団創立から実に25年目となる悲願のリーグ初優勝を達成します。その後日本シリーズには惜敗を喫しましたが、翌年から3年連続でリーグ優勝、1979年には満を持して初の日本一に輝きます。翌年は2位と大差をつけリーグ優勝、日本シリーズにも勝利し、2年連続で日本一となりました。

広島市民に支えられながら苦境を乗り越え、まさに県民一丸となって戦い抜いた広島東洋カープは、黄金時代を迎え、常勝軍団として君臨します。1984年には3度目の日本一、その後も数回のリーグ優勝を獲得します。

低迷期

しかし1991年を最後に優勝から遠ざかります。黄金時代を支えた選手たちの引退が続き、戦力に大きな陰りが見え始めた翌年の1992年には10年ぶりとなるBクラスでシーズンを終え、さらに翌年1993年には19年ぶりとなる最下位でシーズンを終えました。

広島東洋カープは、ここから2度目となる試練の時代の幕開けとなります。Bクラスで終えるシーズンが続き、観客席にも空席が目立ち始めたころ、チームは若い世代を育てることに注力し、次なる時代へ向けて準備を整えていきました。

そして2013年

2010年からチームを率いた「野村謙二郎」監督の時代から少しずつ変化が見られ始めます。かつての黄金時代の再現に取り組むべく若手を中心に育て上げ、2012年には若き鯉たちが頭角を現し始めます。この年、前田健太投手がノーヒットノーランを達成するなどシーズンを通して投手陣が善戦を繰り広げました。

そして2013年、16年ぶりとなるAクラス入りを勝ち取りCS(クライマックスシリーズ)へと進出します。CSでは惜しくも敗退となりますが、新・広島東洋カープとして新たな時代の幕開けを予感させる記念すべき年となりました。2014年のシーズン後にはかつての広島のエース「黒田博樹」投手が渡米先のヤンキースから日本復帰を決意し、阪神からは「新井貴浩」内野手が広島に復帰します。

球団の創立から困窮期、そして第一次黄金期を支え続けた広島県民。今、広島東洋カープはあの日の思いを胸にもう一度輝こうとしています。

チームの記録

リーグ優勝回数

6回(1975年、1979年、1980年、1984年、1986年、1991年)

日本シリーズ優勝回数

3回(1979年、1980年、1984年)

Aクラス入り

22回(1968年、1975年、1976年、1978年、1979年、1980年、1981年、1983年、1984年、1985年、1986年、1987年、1988年、1989年、1990年、1991年、1994年、1995年、1996年、1997年、2013年、2014年)

※ Aクラスの連続記録 9年(1983年~1991年)

最下位の数

10回(1950年、1951年、1963年、1967年、1969年、1972年、1973年、1974年、1993年、2005年)

※ Bクラスの連続記録 18年(1950年~1967年)

勝敗記録

最多勝 75勝(1984年)

最多敗 96敗(1950年)

選手の記録

通算記録(野手)

本塁打

  1. 山本浩二 536本
  2. 衣笠祥雄 504本
  3. 前田智徳 295本

打点

  1. 山本浩二 1,475点
  2. 衣笠祥雄 1,448点
  3. 前田智徳 1,112点

安打

  1. 衣笠祥雄 2,543安打
  2. 山本浩二 2,339安打
  3. 前田智徳 2,119安打

打率

  1. L・ロペス .305
  2. 前田智徳 .302
  3. 栗原健太 .293

二塁打

  1. 衣笠幸雄 373本
  2. 山本浩二 372本
  3. 前田智徳 353本

三塁打

  1. 高橋慶彦 55本
  2. 野村謙二郎 47本
  3. 大和田明 39本

盗塁

  1. 高橋慶彦 464回
  2. 緒方孝市 268回
  3. 衣笠幸雄 266回

通算記録(投手)

勝利数

  1. 北別府学 213勝
  2. 長谷川良平 197勝
  3. 大野豊 148勝

セーブ数

  1. 永川勝浩 164個(2015年現在)
  2. 大野豊 138個
  3. 佐々岡真司 106個

ホールド数

  1. 横山竜士 115個
  2. 梅津智弘 84個
  3. シュルツ 71個

奪三振数

  1. 川口和久 1,938個
  2. 佐々岡真司 1,806個
  3. 北別府学 1,757個

防御率

  1. 前田健太 2.47
  2. 長谷川良平 2.65
  3. 大石弥太郎 2.80

永久欠番

「3番」衣笠祥雄(1965~1987年)

「8番」山本浩二(1968~1986年)

球団情報

歴代のホームグラウンド

「広島総合球場(現:Coca-Cola West野球場)」(1950~1957年)

「旧:広島市民球場 」(1957~2009年)

「現:広島市民球場(MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島)」(2009年~)

主な球団施設

「広島東洋カープ由宇練習場(二軍ホームグラウンド及び練習場)」

「広島東洋カープ屋内練習場(マツダスタジアムに隣接する屋内練習場)」

「広島東洋カープ屋内総合練習場・大野寮(屋内練習場・若手選手専用寮)」

「三省寮(旧:レギュラー選手専用寮)」(1958~2011年)

「大州寮(現:レギュラー選手専用寮)」

「カープアカデミー(MLBのアカデミーを参考に作られた施設:ドミニカ共和国)」

応援歌

それ行けカープ(2016バージョン)

燃える赤ヘル僕らのカープ

宮島さん

 マスコット

カープ坊や

広島東洋カープのマスコット、「カープ坊や」。今やファッションアイテムのモチーフとして若い世代の女性を中心に話題を集めています。新しいグッズが発売されると、発売直後に完売するものが出るという人気ぶり。世代を超えた永遠のマスコットです。40代以上には非常になじみのあるマスコットで、この姿を見ると応援歌が頭をよぎるというお父さんも多いのではないでしょうか。

carpboy

スラィリー

1995年に登場した広島東洋カープの新マスコット、「スラィリー」。よく「スライリー」と記されていますが、「イ」は小さい「ィ」が正しく、お茶目なという意味があります。球場でも陽気なパフォーマンスとして知られ、カープファンから愛される存在として試合を盛り上げてくれています。最近ではグッズの売り上げが非常に好調で、ファンからしきりにサインをねだられている姿も見かけます。

slyly

伝説の名場面

初のリーグ優勝(1975年)

カープファンのみならず、広島県民にとって生涯記憶に残る瞬間です。この時からカープの黄金期が始まりました。

初の日本一(1979年)

山本浩二や衣笠祥雄、江夏豊などのスター選手が活躍を見せた伝説の一年です。年間を通して、この時ほど広島が赤く染まった年はありません。

江夏の21球(1979年)

カープだけでなく、球史に残る名場面として語り継がれています。江夏豊に託したシーズンの集大成、その姿を描いた本も発売されています。

炎のストッパー 津田恒美(享年32歳)

享年32歳という若さでこの世を去った伝説のストッパー。その闘志溢れるプレースタイルは、野球ファンのみならず多くの人々を勇気づけてくれました。津田にあこがれる野球選手は多く、今なおプロ野球界に影響を与え続けています。

カープいまどき情報

カープ観戦チケット(マツダスタジアム)

今日のカープブームにより、チケットの入手がとても困難になってきています。空席情報を見て残っていたら迷わず購入することを強くおすすめします!

カープグッズ

プロ野球球団の中で、今、最もバラエティに富んだグッズを展開しているカープ。真っ赤なグローブの形をした55万円もするソファーから、お父さんの下着まで、その種類は数えきれないほどの商品があります。その中でも限定Tシャツや限定ユニフォームは大変な人気で、販売から5分で完売してしまうものもあります。

試合で珍しいプレーや好プレーが出るとすぐに商品化し、ファンの記憶に新しいうちに販売するという手法は、今や球団関係者のみならず、各界からそのビジネス手法が注目されています。

カープ女子

2013年ごろから全国的なブームとなっているファン現象。特に首都圏で盛り上がっており、カープグッズを身にまとい、球場に応援に行く若い女性が爆発的に増えています。これはチーム力が上がってきて強豪になりつつあることも要因のひとつですが、選手たちの人気がすさまじく、シーズン終了後各地で行われるイベントなどは、人気アイドル顔負けの盛況ぶりで、入場するために長蛇の列を作っているカープ女子たちを方々で見かけます。

カープ球団もファッショングッズに力を入れており、一昔前のコスプレ感は全く無く、オシャレなグッズが数多く販売されており、この現象は今や全国に広がり続けています。

関東から貸し切りの新幹線車内で盛り上がるカープ女子

photo by 中国新聞(関東から貸切の新幹線車内で盛り上がるカープ女子)

カープ本

書店の中でコーナーが作られているほど人気のカープ関連の本。実はカープ本は2005年ごろから人気が出始めたのですが、当初はまだどちらかと言えば「往年の熱い男子ファン」によく読まれていました。しかし、特に2013年以降に出版されたカープ本の多くは完全に女性向けの内容となっており、今流行りのカープ応援ファッションの特集や、若手選手のプライベートショットの数々など、アイドル本のような内容となっています。

現在販売されているカープ本は、実に300冊を超えています。

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